山海の幸、人の幸、美食家垂涎の味に酔う。
偉人が見染めた名湯に、身も心もときはなつ。
温かなもてなし、旅情あふれる湯の里の宿。
旅の想い出に彩りを添える、郷土の逸品。
目にも、体にも、心にも、感動サプライズ。
歴史と風土が織り成す、感激のひととき。
思いは深く、この地を愛する情熱人たち。
後世に語り継ぐ、豊浦ゆかりの偉人列伝。
毛利侯がこよなく愛した、お殿様の湯・川棚温泉
「大昔一大沼地だった川棚には一匹の巨大な青龍が棲んでいた。しかし、欽明天皇の頃の大地震によって亡くなってしまった。里人は哀れに思い、青龍権現としてと祀ると温泉が湧出した。」・・・ そんな青龍伝説に彩られる川棚温泉。一度は源泉が涸れたと古文書に記されていますが、一人の僧によって再び温泉は息を吹き返しました。その僧の名は、怡雲(いうん)。応永年間(1394~1427年)、京都・鹿苑寺(金閣寺)に一時身を置いた経歴を持つ怡雲が、三恵寺(さんねじ)の住職を務めていた頃、夢に現れた薬師如来のお告げから、再び温泉を掘り当てたと伝わっています。以来、800余年、絶えることなく湧きあがる肌になめらかな上質なラジウム泉は、病気平癒に効果があるといわれ、地元の人々に親しまれてきました。当時は「湯谷(ゆや)温泉」と呼ばれていた川棚温泉。慶長15年(1610年)の検地帳にはすでに9件もの湯屋敷があったと記されています。そして、川棚温泉を一躍有名にしたのが、長門長府藩第三代藩主・毛利綱元(もうり・つなもと:1650-1709年) です。
わずか4歳で家督を継ぎ、以後56年にわたり藩政に力を注いできた毛利綱元は、病の治癒を目的に妙青寺に本陣を置き、川棚温泉に浸かったところたちどころに回復。感激した綱元侯は薬師院を建立。元禄6年(1693年)には、殿様専用の湯治場「御殿湯」やお泊まりどころの御茶屋が設けられました。これを機に、川棚温泉はお殿様の湯として広く知られるようになり、代々の藩主がそのなめらかな温泉を満喫。また、御殿湯の誕生とともに川棚温泉は手厚く保護され、厳格な入湯制度も設けられました。江戸時代の川棚には、「町の湯(下湯)」と「無田の湯(上湯)」の2つの温泉があり、それぞれに「一之湯、二之湯、三之湯」と呼ばれる湯船が用意され、身分によって入湯を厳しく制限。天明2年(1782年)の「川棚温泉御定書」には、「一之湯」は身分の高い武士、寺社家以外の入湯を許可しないことが記されていました。また、江戸時代に入ると、萩藩主が領内を視察する御国廻りのコースに川棚温泉が含まれるまでになりました。
以来、長府藩内はもとより山口県内でも屈指の湯治場として、賑わいを見せた川棚温泉。上はお殿様から下は庶民まで、様々な階層の人々が訪れるこの地から、やがて固有の芸能が誕生しました。それが、若嶋梅三郎によって再興された歌舞伎一座『若嶋座』です。長府毛利藩八代藩主・毛利匡敬(もうり・まさたか)から「御前座」の名を贈られた『若嶋座』は、毛利藩主の御前でたびたび芝居を行い、天明4年(1784年)には萩本藩での御前芝居を行いました。さらに、「梵天櫓御免(ぼんてんやぐらごめん)」と呼ばれる、芝居興行の特権を与えられ、公然と諸国を巡業。その巡業先も西日本各地はもとより、遠く大阪にまでにおよび、昭和5年(1930年)にはハワイ公演も成功させました。幕末期から昭和初期にかけては「川棚芝居」と呼ばれて親しまれた『若嶋座』でしたが、戦争が始まるとその座員の多くが兵役にとられ、昭和15年頃にはついに解散。川棚の地に生まれ、大輪の花を咲かせた後に、静かに幕を閉じた若嶋座。そこには、武力や権威ではなく、芸能や文化で人心をまとめたいと願った歴代毛利侯の思いが脈っているようです。
西に雄大な玄海灘を望み、東におだやかな山々が連なる…。四季折々に美しい表情が楽しめる川棚は、風光明媚な湯治場としても知られていました。長府毛利藩十三代藩主・毛利元周(もうり・もとちか)は、文久年間に川棚温泉の入浴の際、この地における美しい八つの風景を選んで「川棚八景」と名付けたと伝わります。気象条件や自然現象、人々の営みなども含めての絶景を評した「八景」は、庶民の間で観光旅行がブームになった江戸時代、観光地の評価基準のひとつでもありました。お殿様を魅了した川棚の美しい風景。今度はあなたが、その目で満喫しませんか。
<川棚八景> ①東原晴嵐(晴れた日に立つかすみ) ②柴崎夜雨(抒情漂う夜の雨 ③波中落雁(空から舞い降りる雁) ④茶臼暮雪(暮れ方に降る雪。また夕景の雪の眺め) ⑤厚島夕照(夕日に照らされる厚島の風景) ⑥松谷帰帆(松谷から眺める港に帰る船) ⑦飛来秋月(三恵寺から眺める秋の月) ⑧妙寺晩鐘(夕暮れ鳴る妙青寺の鐘) |
毛利侯を魅せた川棚温泉。かつてそれらのお殿様は、川棚への湯治の際に「赤間関街道(あかまがせきかいどう)」を利用しました。この街道は、江戸時代になって萩藩が整備した道路網のひとつで、城下町である萩と下関をつなぐ交通の要衝でもありました。「中道筋」と「北道筋」と呼ばれる二つの道からなる「赤間関街道」ですが、そのうちの「北道筋」は川棚温泉のある豊浦町を通るルートでした。さらに、吉永~高野間には川棚温泉を通る迂回路が整備されることで、毛利侯や萩藩主は足しげく川棚に訪れるようになりました。江戸時代、お殿様一行が歩みを進めた名湯へ続く道。この街道の各所にはいまも当時の面影が残り、御殿湯の伝統はもちろん、山頭火やコルトー、晩年の小野小町などエピソードも多彩です。その歴史的な価値を高く評価され、一ノ瀬~井尻[JR川棚温泉駅前]の街道は、平成17年度の国土交通省・夢街道ルネサンスで「毛利侯御殿湯街道」に認定。様々な歴史に彩られた川棚は、これからも新しい歴史を刻んでいきます。
御殿湯街道の名残が残る川棚温泉の街並み |
御殿湯の近くに残る「湯明神」 |
川棚温泉の各所には毛利侯御殿湯街道を示す道しるべが建てられている |
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