豊浦町 青龍・毛利侯・山頭火・コルトーが愛した豊浦町

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種田山頭火 川棚に魅せられ、この地を終生の地と願った、漂泊の俳人

心のあるがままを読んだ、自由律俳句の巨星

「まっすぐな道でさみしい」―その時々に芽生えたあるがままの心情を自由に、純粋に、そして放埓に詠んだ作品で、俳句という文学に新風を吹き込んだ種田山頭火(たねだ・さんとうか:1882-1940年)。五・七・五の定型や季語を用いるといったそれまでの俳句の形にとらわれない句は、「自由律俳句」というジャンルを不動のものとし、今日では全国で親しまれるようになりました。数奇な運命にほんろうされながらも、自由律俳句の巨星となった種田山頭火。西日本を中心に放浪しながら句作に励んだこの漂泊の俳人もまた、川棚に魅了された一人。とりわけ、おだやかな山々に抱かれた日本の原風景ともいえる素朴な風土、そして、こんこんと湧き出る温泉。それは、稀代の俳人に、川棚こそが終生の地と思わせるほどの魅力に満ちたものでした。

人生にほんろうされながら名句を詠む

明治15年(1882年)、山口県西佐波令村(現・山口県防府市八王子)の大地主に生まれた種田山頭火(本名:種田正一)。彼は9歳のときに母が自殺するという不幸に見舞われながらも勉学に打ち込み、高校を優秀な成績で卒業した後に早稲田大学に入学しました。しかし、神経衰弱のために中退して帰郷。家業を手伝いながら10代の中頃から親しんでいた俳句に傾倒していきました。明治43年(1910年)、結婚して一児をもうけてからも山頭火は句作に没頭し、大正2年(1913年)には当時、自由律俳句の第一者と称されていた荻原井泉水(おぎわら・せいせんすい)の門下に。さらに、大正5年(1916年)には、俳句誌『層雲』の選者に参加するほどになりました。俳句の世界では徐々に頭角を現しはじめた山頭火でしたが、その行く手には数奇な運命が待ち受けていました。

行乞しながら西日本を漂う

生来の酒好きで、一度呑みはじめると正体不明になるまでとことん呑む。その呑みっぷりはまさに豪放磊落。そんな山頭火の酒癖と父親の放蕩が災いして、家業の酒屋はついに倒産。その後、妻子を連れて熊本に移住した山頭火でしたが、仕事が上手くいかずに大正8年(1919年)に離婚し、翌年、単身東京へ出奔。その間、父と弟を亡くすなど、山頭火の身の周りには不幸が相次ぎます。大正12年(1923年)、関東大震災に遭った山頭火は熊本市の元妻のもとへ。当時の生活苦はすさまじく、山頭火は耐えきれなくなって自殺未遂を起こしたことも。そして、報恩禅寺のもとで雑用役として働く寺男になりました。大正14年(1925年)、43歳になった山頭火は出家し、隣町にある味取(みとり)観音堂瑞泉寺の堂主になり、その翌年より、托鉢(たくはつ)をしながら各地を放浪する「行乞(ぎょうこつ)」の旅に出たのです。その後、九州をはじめ西日本各地を転々としながら、句作を続ける山頭火。雨風ですっかりくたびれた袈裟をまとったその姿は、まるで乞食坊主そのものだったとか。しかし、「分け入っても分け入っても青い山」、「雨ふるふるさとははだしで歩く」など、みずみずしい感性で詠んだ飾り気のない俳句は、その魅力をますます深めていきました。

花いばら、ここの土にならうよ

そして、昭和7年(1932年)5月24日、山頭火は初めて川棚の地を踏みました。佐賀県嬉野に滞在した後に川棚を訪れた山頭火は、そのときの心境を日記『行乞記(二)』にこう記しています。「嬉野は視野が広すぎる、川棚は山裾に丘陵をめぐらして、私の最も好きな風景である。とにかく、私は死場所をここにこしらへよう」。一目で川棚の地を気に入り、ここを終の住処と心に決めた山頭火は、定住するための質素な住まい(其中庵:ごちゅうあん)の建設を進めます。川棚では木下旅館、中村屋などの旅館が、山頭火をあたたかく迎え入れ、山頭火自身も滞在中には大いに酒を呑み、川棚の風土と人情を満喫。そして、温泉に目のなかった山頭火は、川棚の湯にも頻繁に浸かりました。「今朝の湯壺もよかつた、しづかで、あつくて、どんどん湯が流れて溢れていた、その中へ飛び込む、手足を伸ばす、これこそ、優遊自適だつた」と『行乞記(三)』に川棚温泉の感想をしたためています。もちろん、山頭火は川棚でも多くの名句を詠んでおり、妙青寺の石碑に刻まれた「涌いてあふれる中にねている」、川棚クスの森の石碑にある「大楠の枝から枝へ青あらし」をはじめ、終生の地の決心を詠んだ「花いばら ここの土にならうよ」などは特に有名です。川棚を愛し、川棚の土になろうとした山頭火でしたが、その願いは叶わず昭和15年(1940年)松山市で57年の波乱の生涯を閉じました。山頭火をとりこにした緩やかな山々、素朴で懐かしい田園風景と上質な温泉。それは永い時を隔てた今日でも、この地に脈々と受け継がれています。いまも気軽に川棚を散策すれば、山頭火の面影を偲ぶことができます。

昭和8年6月5日 下関市長府三島
種田山頭火 51歳(左)・近木黎々火 21歳

近木圭之介(ちかき・けいのすけ) 俳号:近木 黎々火
明治45年生まれ。本名正。
昭和7年萩原井泉水(自由律俳句提唱者、俳誌「層雲」主宰)に師事。
山頭火と交流のあった多才な俳人であり画人。
主たる作品は「圭之介句集」「圭之介詩画集」
2009年3月 97歳で逝去される直前まで、下関で創作に打ち込んだ。

撮影:近木圭之介

「山頭火の後ろ姿」が撮影されたエピソード

1932年(昭和7年)に小郡駅近くに念願の「其中庵」(ごちゅうあん)を結庵。師の萩原井泉水や久保白船ら俳友が出入りし、句会や俳句談義が行われていた。そのなかに黎々火の俳号を持つ近木さんがいた。 息子と同世代の近木さんとすぐに心許し合う友となった山頭火。九州への旅の途中に近木さん宅に泊まり、長府の町を散策した際、後ろ姿を写したい衝動に駆られた近木さんが「後ろから撮りませんか?」と声をかけて撮影したのが、この山頭火の後ろ姿の写真である。1978年雑誌「太陽」9月号の特集「流離漂泊の俳人たち」に、1931年九州で読んだ「後ろ姿のしぐれてゆくか」の句とこの写真が掲載されてから、山頭火のトレードマークのようにこの写真が用いられるようになった。

永い時を超えて帰ってきた山頭火 川棚で全国山頭火フォーラム開催~

生前は一部の愛好家のみに評価されるに過ぎなかった山頭火の自由律俳句。戦後の混乱期を経て、日本が高度経済成長を遂げた頃から、その作品は人々の間に徐々に広まり、山頭火の作品に心を打たれた多くの人々は、この漂泊の俳人を「昭和の芭蕉」と称えるようになりました。そして、平成4年(1992年)、俳句という文学に大きな足跡を残した山頭火を偲ぶ「第1回全国山頭火フォーラム」が開催。その後、全国規模で開催された同フォーラムですが、山頭火没後70年にあたる平成22年(2010年)10月24日、下関市川棚温泉交流センター・川棚の杜で開催されました。川棚を終の住処と定めながらも、その思いを果たすことができなかった山頭火。その思いは、70年という時を超えて叶えられたのです。

「山頭火フォーラムin川棚」の模様についてはコチラから

  • クスの森の下に建つ句碑 「大楠の枝から枝へ青あらし」

  • 妙青寺境内の句碑 ~涌いてあふれる中にねている~

  • 山頭火が滞在した平田旅館のすぐそばにある妙青寺の山門 
    ~もう山門は開けてある~   

妙青寺について詳しくはコチラから

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