豊浦偉人物語

山海の幸、人の幸、美食家垂涎の味に酔う。

偉人が見染めた名湯に、身も心もときはなつ。

温かなもてなし、旅情あふれる湯の里の宿。

旅の想い出に彩りを添える、郷土の逸品。

目にも、体にも、心にも、感動サプライズ。

歴史と風土が織り成す、感激のひととき。

思いは深く、この地を愛する情熱人たち。

後世に語り継ぐ、豊浦ゆかりの偉人列伝。

Alfred Denis Cortot
アルフレッド・コルトー

川棚を愛し、思いを馳せた、世界的なピアニスト

世界が酔いしれたショパンの名手

豊かな詩情と多彩な感情、そしてどこまでも艶やかな響き…。その比類なく美しい演奏で、世界中の聴衆に感動を与えた20世紀前半のフランスを代表する大ピアニスト、アルフレッド・コルトー(1877-1962年)。スイス・ジュネーブ近郊に生まれ、幼時期にパリに移ったコルトーはパリ音楽院に進学。そこで、ショパンの薫陶を受けたエミール・デコム(ドゥコンブ Émile Descombes)に師事し、次第にその天賦の才を開花させていきました。第一次世界大戦後はピアニストとして欧米を巡演。とりわけ、ピアノの詩人と謳われたショパンを弾けば、アルトゥール・ルービンシュタインとともに世界を代表するピアニストと絶賛されました。日本でもショパンのピアノ曲が浸透し始めた昭和初期、コルトーの弾くショパンのSPレコードは、つねにベストセラーになりました。さらに、コルトーはピアニストだけでなく、指揮者、教育者としても活躍。1919年には、オーギュスト・マンジョとともに自らの音楽学校「エコール・ノルマル音楽院」を設立し、音楽教育にも惜しみない情熱を注ぎました。
 


エコール・ノルマル音楽院

 
 
 

最初で最後となった念願の日本公演

昭和27年(1952年)、晩年期を迎えたコルトーは念願の日本公演を果たし、9月から11月まで全国各地で公演を行いました。山口県では宇部と下関でコンサートを開催し、この間、コルトーが宿泊したのが川棚温泉のホテルでした。来日して2週間目を迎えていたコルトーは、まろやかな海となだらかな山に包まれた、やさしい川棚の美しさに魅了され、「私はこれまで世界の美しい海や山を見てきたが、こんなに美しい夢のような島はみたことがない。なぜか外国にいる気がしない。日本はブレ・ペイ(本当の国)だ。」「日本は素晴らしい。」「なぜか外国にいる気がしない。」「日本はブレ・ペイ(本当の国)だ。そういえる国はたくさんあるものじゃない。永久にここに住んでも悔いはない」と、同行していた愛弟子にもらしたと言われています。
 


ホテルの部屋で手紙を書くコルトー

関係者との記念写真

子息ジャン・コルトー氏との記念写真
 

私の思いはひとりあの島に残るだろう

そして、宿泊したホテルの窓から眺めた川棚の美しい風景…。とりわけ厚島と響灘の美しい風景に魅せられた彼は、当時の川棚村長に「天国のようなあの島でこっそり死にたい。ぜひ買いとりたい」と言ったそうです。居合わせた人々や村長は大変驚き、最初は冗談だと思い断りましたが、その熱心な気持ちに心打たれた村長と村民は「あの島に永久にお住みになるなら無償で差し上げましょう」と快諾。コルトーは感激して「トレビアン(感激)」を連発。「必ずまた戻る」、「私の思いはひとりあの島に残るだろう」とつぶやいたそうです。また、島の名前を「孤留島(コルトー)」と命名することも提案され、コルトーは大いに感動したと伝えられています。
そして、川棚村長は記念碑を建てるため、碑文の揮毫をコルトーへ頼みました。「この上なく美しいこの島に 友情によって書かれたこの碑文が、願わくば絶えず夢の中に住む精神を持ったいちフランス人音楽家の思いをいつまでもとどめておくができますように」と言い、「音楽は精神の炎を噴出せねばならぬ」というべートヴェンの言葉を自らの信条として日本の音楽学徒に残しました。
帰国後コルトーは、「僕の名前の島が日本にあるんだ」と楽しそうに話し、「孤留島」と彫った印鑑を手紙のサインの脇に必ず押していました。また、すっかり体が弱った晩年にも「日本に夢の島がある。もう一度行きたい」と家族に話していたそうです。しかし、既に75歳だったコルトーは帰国後、病に倒れ、思いは果たせぬまま10年後にこの世を去りました。その後、川棚村は合併、川棚観光ホテルも廃業となり、やがて孤留島の話は過去のものとして細々と語り継がれるのみとなっていました。
 


川棚から眺める厚島(孤留島)

コルトーが感激した景色は今も変わらない
 


厚島(あつしま)は豊浦町の響灘沖合2kmに浮かぶ無人島で、周囲わずか4kmの男島、すぐそばの女島、竜宮島、石島の4島からなる島々の総称です。

 

コルトーが宿泊した当時の川棚観光ホテル

昭和初期には40軒の温泉宿が軒を連ねた川棚温泉。なかでも、コルトーが宿泊した川棚観光ホテルは、豪華でモダンな洋風建築で、ゴルフ場も併設されるなど、当時の最先端リゾートホテルであった。海運や貿易、造船、捕鯨などで繁栄した国際港「下関」の奥座敷として、多くの政財界や著名人で賑わったといわれている。

 

コルトー日本公演のパンフレット

 
1952年最初で最後の来日を果たしたコルトーによる、国産LP第1号となった記念碑的録音の復刻CD
コルトー・イン・ジャパン1952
 

川棚に、コルトーの夢ふたたび

コルトーがパリに設立したエコール・ノルマル音楽院には「カワタナにある夢の島」の話が残されていました。近年、コルトー没後40年の記念事業として、生前コルトーが周囲に話していた「『カワタナ』で見つけた夢の島」探しが始まり、同校の中沖玲子教授に「コルトーのその夢の島はどこにあるのか調べてほしい」と依頼。中沖教授が日本の関係者と協力して調査した結果、パリのエコール・ノルマル音楽院から川棚のホテルに1本の問い合わせの電話が入りました。これをきっかけにコルトーが愛した「カワタナで見つけた夢の島、厚島」と「孤留島」がふたたび結びつきました。
フランスで語り継がれていた「美しい夢の島」の思い出や、彼を取り巻く人たちの輪によって、途絶えかけていたコルトーと豊浦の関係は、数十年ぶりに結ばれることとなりました。もしかするとコルトーの魂は、彼のもう一つの故郷である厚島に今も住み続けているのかもしれません。平成15年(2003年)10月、孤留島(厚島)の縁で川棚温泉まちづくり協議会が2007年4月、パリ市のエコール・ノルマル音楽院を訪ね、アンリ・ウジェル校長とコルトーの息子ジャン・コルトー氏と面会。そして、日仏交流150周年にあたる2008年11月に再びパリで下関市とエコール・ノルマル音楽院とのパートナーシップを結ぶ調印式が執り行われました。

 
 

コルトーホール完成。あたらしい歴史が始まる。

2010年1月17日に、コルトーが滞在したホテル跡地に「下関市川棚温泉交流センター 川棚の杜」が完成。国際的な建築家、隈研吾氏設計による「川棚の杜」は川棚の豊かな自然と呼応するような有機的な建築になることを目指して設計され、コルトーがこよなく愛した厚島や豊浦のまろやかな山並みを、そのまま具現化したような美しいシルエットを持っています。
地元川棚の文化やアートが楽しめる「烏山民俗資料館」も併設された「川棚の杜」には、音楽ホールとしても使用される大交流室が設けられ、その名も「コルトーホール」と命名されました。
コルトーホールのこけら落としとして「コルトー音楽祭」が開催され、コルトーが設立したエコールノルマル音楽院の最高過程を首席で卒業され、マルタ・アルゲリッチ国際コンクール優勝など輝かしい経歴で世界中で活躍される広瀬悦子さんと、同音楽院教授の中沖玲子さんによる素晴らしい演奏が披露されました。 コルトーの思いは長い年月を経て再び川棚の地に新しい夢を育み始めました。 そして、これから川棚から音楽を中心とした日仏文化交流がはじまろうとしています。 川棚の杜ホームページ

 
 

写真:(c)KoujiOkamoto

 

「下関観光交流センター川棚の杜」竣工式 (2010.1.16)


記念式典

川棚の杜設計者 隈研吾さんトークショー
 
 

コルトー音楽祭


広瀬悦子さんと中沖玲子さんによるピアノコンサート
コルトー音楽祭実行委員長の友永次郎先生と下関フィルハーモニック・ウインド・オーケストラの演奏指導により、地元の夢が丘中学、豊洋中学、響高校の生徒さんが参加した「ジュニアミュージックワークショップ」
 

広瀬 悦子

3歳よりピアノを始める。1995年、16歳で第46回 ヴィオッティ国際コンクール3位(1位なし)入賞。ジュネーブ・ミュンヘン両国際コンクール入賞。パリ・エコールノルマル音楽院・最高過程を首席卒業。卒業時にはニエル・マーニュ賞受賞。

1999年、マルタ・アルゲリッチ国際コンクール優勝。 これまでにバイエルン放送交響楽団他国内外のオーケストラと数多く共演。 2007年の全米デビュー以降、イタリア/CIMA国際音楽祭、フランス/ラロックダンテロン音楽祭など海外でも活躍中。
 

 

中沖 玲子

パリ国立高等音楽院ピアノ科・室内学科共にプルミエプリ(1等賞)で卒業。在学中パリ国際音楽コンクール第2位入賞をはじめ、パリ市長賞、芸術協会連盟賞を受賞。また、セニガニア、エピナール国際コンクールに入賞。ジェームス・ジャッド指揮/ハレ交響楽団(イギリス)の”プロ蒸す・シリーズ”にてラヴェルのピアノ協奏曲を共演するほか、ウクライナ国立歌劇場管弦楽団他ヨーロッパ各地のオーケストラとも共演し活発な活動を行う。審査員としてもパリ・フランス音楽コンクール等世界のさまざまなコンクールで活躍。
現在、パリ・エコールノルマル音楽院教授。
 

 

京都フランス音楽アカデミー 川棚の杜 コルトーホール 特別演奏会(2010.4.26)

川棚を愛した世界的ピアニスト アルフレッド・コルトーの縁で、フランス・クラシック界を代表する巨匠パスカル・ロジェ氏(ピアノ)、 ブルーノ・パスキエ(ヴィオラ)によるコンサートが開催されました。


京都フランス音楽アカデミーは、フランス政府等の支援により、1990年に創設された日仏音楽交流事業です。毎春、フランスよりトップクラスの教授陣を招聘し、関西日仏学館内で2週間のマスタークラスを開講しています。審査を通った受講生が日本中から約130名集まり、 密度の高いレッスンを受講します。コルトーが創設したパリ・エコール・ノルマル音楽院 との提携により、優秀生に同学院へのスカラシップが贈られています。また、シャンゼリゼ管弦楽団及びサント・ヨーロッパ音楽アカデミーとの提携により、 2004年より古楽奏法クラスを開講。優秀生には、サント・ヨーロッパ音楽アカデミーへの滞在が贈られています。 京都フランス音楽アカデミー
 

パスカル・ロジェ Pascal ROGE

フランスのピアノ音楽のもっとも代表的なピアノ演奏家。彼が演奏するプーランク、サティ、フォーレ、サンサーンス、ラヴェルの音楽は、 その優雅さ、美しさ、繊細なフレージングが特徴。17歳でデッカレコード会社と専属契約を結びレコーディングを行う。2度のグラモフォン賞、ラヴェル、サ ンサーンスの協奏曲でディスク大賞とエディソン賞など数々の名誉ある賞を受賞。その他、特筆すべきはロンドン交響楽団と共演したレコーディング、シャル ル・デュトワ指揮のもとに行ったプーランクのレコーディングがある。また、最近行ったベルトラン・ド・ビリー指揮ウィーン放送交響楽団とのレコーディング は大きな反響を呼んでいる。世界の有名なホールのほとんどで演奏会を行い、これまでフィラデルフィア管弦楽団、モントリオール交響楽団、パリ管弦楽団、フ ランス国立放送管弦楽団、NHK交響楽団、ウィーン交響楽団、ロンドンの管弦楽団などと共演。また、トスカーナ地方で開催される夏のフェスティバル ”Incontri in Terra di Siena” の音楽監督を務める。
http://www.pascalroge.net/
 

ブルーノ・パスキエ Bruno PASQUIER

ヴィオラ(モダン)
パリ国立高等音楽院 教授

1943年生まれ。1961年にパリ国立高等音楽院で1等賞を獲得。1965年ミュンヘンの弦楽四重奏国際コンクールで優 勝。1965年から1985年まで、パリ・オペラ座管弦楽団の主席ヴィオラ奏者を務める。1985年には、フランス国立管弦楽団の首席ヴィオラ奏者に任命 され、1990年まで務める。豊かで美しく力強い音色によって、世界で最も才能あるヴィオラの奏者のひとりと評せられている。ヴァイオリンのレジス・パス キエ(弟)とチェロのロラン・ピドゥーとともに弦楽三重奏団を結成。レコード録音では、1976年にディスク大賞、77年にフランス・ディスク・アカデ ミー大賞など多数の賞を受賞。様々な制作にも携わり、2008年、ラジオ・フランスにて映画「青いパパイヤの香り」や「夏至」の音楽を担当したトン= ツァ・ティエのヴィオラ・コンチェルトを演奏。数々の国際アカデミーでも教えており、1972年よりパリ国立高等音楽院にて教鞭をとる。レジオン・ドヌー ル勲章シュヴァリエ章、芸術文化勲章オフィシエ章受章。

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